4年半の歳月が創った思い出と希望

前置き

僕が10代、20代の頃に書いた文章は多くあります。それらはインターネットの海に漂っており、サービスの終了と共に消えたものもあれば、しぶとくwebの海原を泳いでいるものもあります。
それらの文章をたまーに見返します。あちこちに書いているため、どこに何があるのか思い出せないのですが、偶然出会う過去の自分が書いた文章から、時に感ずるものもあります。
このあとに綴られている文章は、そんなone of themの日記です。誰かのためになればいいとも思うし、誰の心に響かなくとも、10年後の自分のために残しておきたい。この瞬間の記憶のカプセルとして。

4年半の概観

約4年半勤めた会社を、8月末で退職します。

長いような短いような。感覚としては一瞬でした。

せっかくなので、今思うことをつらつらと書き起こします。学びであり感想であり、思想の片鱗のメモ。

  1. 狂気と安寧のバランス
  2. 習慣、退屈、フロー理論、1/fゆらぎ。「適度なバランス」という終わりのない麻薬
  3. 子供という存在≒遺伝子のビークルとしての宿命を感じる
  4. システムに駆動されるこの肉体はクローンか?否、記憶と経験が刻む固有性
  5. いつも未来に驚かされていたい:期待なき没頭が作る希望、があると信じていたい

狂気と安寧のバランス

やりたいことは山ほどある。だからできる限り手を動かし頭を動かし足を使う。
そういう期間は苦しくも楽しい。何かに没頭できる期間は好きだ。焦燥感もあるが充実感もある。

一方で、一歩間違えばジェンガのごとくすべてが崩れ去ってしまうのではないか。そういう一抹の不安を感じていたし、それがいつどこでやってくるのかもわからないと思っていた。

実際に崩しかけたこともあった。家族が増え、関係者も増えることで生きること自体の複雑性は増すことはあれど減ることはない。

エントロピー増大の法則に支配されることなく肉体及び精神のコントロール可能性。またの名を自律性をいかに担保できるか。
狂気と安寧は尖らせるものではなく、バランスさせていくことの大切さを知った。

習慣、退屈、フロー理論、1/fゆらぎ
「適度なバランス」という終わりのない麻薬

人は習慣という能力のおかげで無駄なエネルギーを省略できる。

一方で、その習慣化が続くことで退屈してしまう。

フロー理論が言うところの、自分の能力に対する適度なチャレンジのバランスがベストである。

また、適度なバランスというのは、1/fゆらぎに照らし合わせるなら、それ自体が美しく快い。

しかし「適度なバランス」は聞こえとしては良いものの、逆説的に終わりのないバランス最適化の繰り返しが求められるし、そこに美しさを感じてしまう以上、麻薬のように中毒性のある概念だなと思う。ゆえに、抗ってもしょうがないなと思う。

常に均衡状態である必要はない。どちらかというと動的平衡。

出たり入ったり、増えたり減ったり、発散したり収束したり、ある程度のゆらぎの中でバランスを取る。ゆらぐためには余白が必要。

バランスとはかくも難しい。

子供という存在≒遺伝子のビークルとしての宿命を感じる

この数年の一番の変化は、子供が産まれたこと。

そして、子供を愛おしいと思う感情がこんなに自然と湧くものなんだと自覚したこと。

ひいては、子供の今後を取り巻く環境。つまり社会的な事象に対して距離感が近く感じるようになったこと。

それらすべて、結局人間も、サル目ヒト科ヒト属の動物に過ぎないのだと痛感する。動物や植物として究極の目的は、子孫繁栄。

無意識的に、感情や思考もそこに寄せられているなと思う。

システムに駆動されるこの肉体はクローンか?
否、記憶と経験が刻む固有性

人間もイチ動物でしかなく、その大半の思想や行動は、遺伝子や進化を経て獲得されたプログラミングコードに過ぎない。

生物学、遺伝学、生態学、文化人類学を調べていると、人はいくつかのパターンに分けられるし、メインの行動原理が共通していると感じる。つまり類型化できるしカテゴライズできる。

とすれば、「究極的に人間ってのは、個々人の差はなく、ヒトという種が今後も存続するためだけに動くクローンなんじゃないか?」とも思う。

理屈ではそうなのかもしれないけど、その事実は少しさびしい、とも思う。

そんな折、『なぜ脳はアートがわかるのか』という本を読み、その内容に救われた。

詳しくは本書に譲るが、要は脳内のベースとなる処理はみな共通している。しかしどうしても、個人の記憶と経験により処理が分岐する部分もあるとのこと。

同じ絵画を見ても、人により抱く感想が違う。ここまでの文章を読んで思い起こすことも、みなそれぞれ違う。

それこそが個々人の記憶と経験の有用性の証拠である。

せっかくなので、この4年半での会社に関わる記憶と経験を、一部抜粋しておく。

  • 無理言って日曜に面接して頂いたおかげで入社できた。当時の上司、社長に頭が上がらない
  • 事業を創りに入社して、半年で事業部が解散し、それを告げられた日に涙した
  • 次の部署ではいきなり衝突から始まったが、最も思い入れが詰まった事業部になった
  • 問い続けることの重要性、体現することの強さをボスから教わった。本当に感謝しています
  • すべてのきっかけを作ってくれた社長には改めて感謝しています
  • Special Thanks チームMOSHの皆さん。業務委託をしていた2年が今の自分に与えた影響は大きい。ありがたい限り。

というわけで、この思い出たちもまったく無駄ではないと安心した。よかった。

いつも未来に驚かされていたい:期待なき没頭が作る希望、があると信じていたい

メジャー・レイザーのキューバ公演を追った『Give Me Future』っていうドキュメンタリー映画を観てたら、映画に登場するあるキューバ人女性がまったく同じことを言ってるの。「わたしは人生に多くを期待はしない。むしろいつも人生に驚かされていたい」って。

イリイチは晩年に「『未来』などない。あるのは『希望』だけだ」って言い遺しているんだけど、これも、なんかだか似たようなことを言ってるようにも思えて。未来に期待をして、予測をして、計画をしていくことで、ヒトも人生も、開発すべき「資源」や「材」とされてしまうことにイリイチは終生抗い続けたんだよ。

 『いつも未来に驚かされていたい:『WIRED』日本版プリント版刊行休止に関するお知らせ』

長々と書いてきましたが、最後はこれに尽きます。
これまた、上記引用元の本文に詳しくは譲りたいところですが、
狂気と安寧の狭間で葛藤する人間として、子を持つ親として、それらの固有性を持つクローンではない人間として、やっぱり希望を作っていきたいと思います。バランスという麻薬を嗜みながら。

というわけで、次のフィールドでも、希望と思い出づくりに没頭していきます。

Daichi Inoue
1990年山口・防府生まれ / Job:マーケ屋,何でも屋 / Like:日本酒,アウトドア,読書