熱しやすく冷めやすく

人間はホメオスタシスにより感情を平準化する。

どんな苦痛もやわらげるが、快楽も薄まる。
どんな快楽も長続きはしない。どんなライフイベント、表彰、達成もそれ単発の快楽はすぐに終わる。
だから継続的に、異なる快楽を得続けるしかない。

快楽は刺激なので、必ずしも改善、上昇といったポジティブである必要はない。要は変化を感じさえすればよい。

しかし変化もまた、ホメオスタシスにより本来は抑制される。
それを突破するキーが想像力だ。

人は幸いなことに、虚構を信じる想像力がある。要は宗教だ。
個人に当てはめるなら、いわゆる夢や目標というのも想像力の産物だ。

想像力でもって、「このままでいい」「このままがいい」という意識に風穴を開ける。

それはつまり、平和な時間を壊すことになる。

それでいいのかどうかは、わからない。自分の思想による。

僕の場合は、変化を善とする。

自分のEvernoteに、2012年時点でこんなメモがあった。

何かにつけて、一貫性というものをある種の美徳や尊ぶべきものとして考えられている気がする。確かに、歴史上で一貫して教訓となるものや変化しないもの、現代まで残ったものや姿勢、考え方というのものはすばらしい。
だけど、それらは無理に、無理矢理残そうとしたものではないだろう。むしろ自然と残っていったもの。核となる考え方や技術、発想というものは余分なものが取り除かれ、シンプルな形として最後に残るのだろう。
だからね、変わることや変化していくことや失うことや消えることを、必要以上に制限しなくてもいいんじゃないの?これは楽観的すぎるのだろうか?あまりに進化論的、あまりに市場経済の神の手を盲目的に信じているのだろうか。

随分危ういな思う。けど、一部はこのままでもある。

というわけで、変化の神を信ずる宗徒は、今日も部屋から一歩も出ず、調和された自宅で想像力を働かせる。

楽しく生きような

115,662に対する大義名分

年々、地元に貢献したいという思いが強くなっている。

なぜ地元にこだわるのかとたまに聞かれるし、何よりその質問は自分に対して繰り返してきた。

経済効率的には、散在した過疎地は集約した方が色々と効率がいい。なのになぜ地元にこだわる必要があるのかは散々考えた。

結果、そこに意味なんてない。

鮭が生まれた川に戻ってくるが如く、帰巣本能としか言いようがない。

田舎を出た人間なら分かるかもしれないし、分からないかもしれない。どっちでもいい。


本題と少し離れた話をします。

何か足りない。満足できないという感覚がずっとある。もうずっと、5年くらい。

どうやったら自分は満足するのだろうか、何を善しとし、何に幸せを感じるのかと考えていた。

自分の納得のいく選択をし続け、納得のいくことに従事し続けるしかない、と思う。

強迫観念的にあるのは、豊かな社会であってほしいと願う思い。

豊かさを最大化したい

では豊かさとは何か?

豊かさとはあらゆる面において多様性があり、またその多様性の中で選択できる自由があること、と自分は定義づけた。

またこの定義の前提として、選択できる力も必要になる。選択に正解はないので、どちらかというと決断する力、の方が近いかも。

そして多様性を理解することと、共感することもまた違う。

人のことを理解したいけど、共感しようとは思わない。いちいち共感してても疲れるだけだ。
でも大切な誰かの感情が揺れ動いている時に、理解したいとは思う。そうしないと、何より自分が辛いから。

とにかく、豊かさのために多様性を担保することを使命と定めた。

その時から、廃れゆく地元やひいては同様の地域、文化を見捨てることを辞めた。

改善、成長できなくてもいい。でもゼロになり、かつて有ったものが無になってしまうのは嫌だ。辛い。
有形無形を問わず、その維持もしくは変化に貢献でき、且つ自分が興味を持って続けられる分野は何か。

それがようやく定まり、最近は納得感のある時間を過ごせている。

という話はまた別で書きたい。

115,662。地元の町のこの人口数が、ゼロにならないことを祈る。

生き急ぐ人生の幕間で

映画「リトル・フォレスト」が良かった。「夏・秋」と「冬・春」の二部作。

穏やかで淡々と、自然ひいては命に向き合うだけの映像。

ゆえに、自分の命や死をも、うっすらと想起させられる。

何か新しい感覚が得られるとか、社会問題を引き合いに出すとか、そういう意図は何もない。思惑が薄い。

観ることにエネルギーを必要としない。退屈な邦画だなと言われても仕方ない。

だからこそ、忙しく、生き急ぎ、疲弊している人にほど観てもらいたいと思える映画。自分もそのうちの一人だ。

自然とか、ありのままとか自分と向き合うとか。こういうの大事だよね、と安易に言いたくはない。

でも忘れたくはないよね、と自分の心に留めておきたい。

どうでもよさのよさ

今から30年も遡れば、まだインターネットなんてものはなく、遠距離間のコミュニケーションはすごくアナログだったと思う。

いや、ポケベルがあったとも思うのだけどとりあえずそれ以前の話をしたい。
(ちなみにポケベルが流行したのは80年代後半から90年代らしい。)

彼氏彼女、友達とのやり取りにLINEとかDMとか使えず、もっと言うとメールすらできない時代にはどうしていたか。

やっぱり手紙(いわゆる文通)だった。と、とりあえず思っておく。

LINEはもちろん、メールですら全盛期に1日30件~100件ほどやり取りしていたが、では文通の最速往復間隔はどのくらいなんだろう?

頑張れば2~3日で返送し合える気がするので、月に最多で10~15通、週3通くらいはやり取りしていたのかな。

意外とそれでもいい気がしてくる。

いまどき、毎日メッセージを送り合うのはちょっと疲れるし。
かといって、週に1回ポツンと何気ないメッセージが来たところで、特にそこから続けるネタもないし。

手紙としてリアルな物質が届き、そこに手を動かした痕跡があれば、どうでもいい内容が書かれていようが何となく許せる。気がする。

メッセージでどうでもいいことが来るとちょっと困る時がある。でも手紙ならいい、そういう感覚。

どうでもいいことを吐き出していくってのは尊い。このブログがそうであるように。

どうでもいいことを、送っていいと思える人がいて、送ってくれる人がいるというのは幸せだな。

でも結局、手紙書かないけど。

バービーと未来

女の子は本当にピンクが好きなのか 』という本が面白かったので以下はその要約と感想。

要約

  • 内容としてはジェンダー論云々の話というわけでもないし、詳細な研究結果でもない。「派遣社員の二児の母」という立場から書かれているので読みやすい
  • 基本的には、「なぜ3歳~7歳くらいの女児はみなピンクが好きなんだろう」という疑問をもとにした展開
  • フランス、アメリカ、日本におけるピンクに対する歴史を概観
  • 幼児教育におけるピンク及びそれを助長するおもちゃの影響
  • 新進気鋭のおもちゃメーカーによる女の子らしさと教育機会の両立の試み…etc

感想

脳科学や生物学の本は、相対する人への理解の手助けになると思う。

でも教育の話は、これからどんな人がいてほしいのか、どんな世界だったらいいのか、という未来の話であり、それゆえに無自覚でいるのは恐ろしいなと思った。

バービー人形が活躍する絵本を読み聞かせ続けると、「頭の中にある美しい女性と現実の自らの身体の差に幻滅し、自己肯定感が低くなり痩身願望が湧き拒食症になりやすい」

どの程度確かか分からないし鵜呑みにしてもしょうがないけど、これは大人も同じなわけで。

どんな本を読み、どんな映画を楽しみ、どんなお酒で誰と乾杯するのか。

そんなこと毎日考えても疲れるけど。

でもまぁ、自己肯定感は高くもっていたい。そういう未来でありたいねえ。

草の生えない未来

いま、10年に1度の災いにぶち当たっている。

リーマンショックなのか、東日本大震災なのか、はたまた世界恐慌の再来なのか。

政治、行政、科学、良心みたいなものがごちゃ混ぜになりつつ、試されている気さえする。

こんな状況、そうそう見れるもんじゃない。

そこにテクノロジーと信念で勝機を見出す商人あらば、悲しみに暮れる人民あり。

東日本大震災は、図らずもその後残された人に原体験としてある種のエネルギーを付与したのと同様に、せめて今回のコロナショックは誰かの原動力となり得るのだろうか。



夏草や 兵どもが 夢の跡

そんな歌が聞こえてこない未来でありたい。

特に意味はない

一宿一飯」というpodcastの番組があって、時々聞いている。

普通の人の普通の話の中にこそ、その人なりのモノの見方・感じ方が詰まっており、それは他人にとっては全く普通ではないから面白い。というのがコンセプトっぽい。

それにしても一宿一飯ってネーミング、すごくいいなと思った。

日常性と不可逆性がある。悔しいくらいにカッコいい。


一宿一飯、有為転変

刻むひと時の不可逆性

日付を跨ぐ普遍性


以上、語呂だけ整えました。

特に意味はない。

アスパラガスと豚肉

時々、「この言葉はどんな由来で、この文字列となりこの読み方になったん?」と思うことがある。

今日も会社で、「この映画はどんでん返しがすごいからめっちゃオススメ」という話を聞きながら、「そういえばどんでん返しの“どんでん”ってなに?」という疑問が急に湧いてきて、その後の話はあまり頭に入ってこなかった。

そういうことが往々にしてある。目の前の人の話よりも、自分の中に湧き上がる疑問に向かい合ってしまう。基本的に並列処理はできないタイプだ。

ちなみに、「どんでん」とは歌舞伎の舞台装置に由来する、らしい。

そして本日1番の疑問は、野菜と豚肉の主従関係について。

アスパラガスは「アスパラの豚肉巻き」なのに、梅しそは「豚肉の梅しそ巻き」になる。
逆になっている。

これはなぜ・・・?

誰か教えてください。